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橋本努 講義「経済思想史」北海道大学経済学部 no.2.

毎回講義の最後に提出を求めているB6レポートの紹介です。

 

 

   早川ゼミ 3年 081032 木村俊子

  

   社会層と信仰という段階における私の考えを述べたいと思う。

   まずウェーバーが、信仰の誕生におけるプロセスは自分はなぜ生まれたのか、自分はどうしてこんな顔なのか、自分はどうして貧しいのか、自分はどうして健康ではないのか…などあらゆる人間の不満・苦難の意味を体系的に自己に納得、あるいは励みに(目標・氏名)にするよう導くものの自然な要求だといっている点には共感する。また、不満・苦難とは逆に幸福[名誉、権力、財産、快楽などのうわべの幸福]だと感じる人間がそれがまさしく自分にとっての幸福であるとの確信を得るための正当化として信仰は誕生したという点においても共感する。

   ただし、ひとつ共感できない部分は信仰というものは恵まれない身分の社会層においてその恵まれないとするようその裏づけのために大体において発生するのだということ。それと同時に恵まれた社会層は救いへの欲求をわずかにしか持っていなく、彼らの自尊心を育てるものは存在だということである。確かにこのことが成り立つことも多いだろう。しかし、そもそも何を持って幸福とするのか。または何を持って恵まれているとするのだろうか。そのような基準というものはありえないのであり、個人で異なるのは当然である。例えば、仏教を聞いた者かは生まれは高い階層の人であったから、裕福であるという意味での恵まれた社会層に属する人であった。しかし彼はなぜ人間は病気になるのか、なぜ人間は不平等なのか、なぜ人間は苦しむのか、なぜ人間は死ぬのか(究極的にはこの死についてであったが)というあらゆる人間に共通する悩みを解決するため高い階層を捨てて、修行をつみ悟りを得た。他にもこのような人物は数多く存在するだろう。つまり、人間は恵まれた社会層(=上流階級、金持ち、権力者など)であろうと恵まれない階層(=恵まれた社会層の反対)であろうと永久的な絶対的幸福というのはもち合わせていないのであるから、恵まれない社会層から宗教というものは生まれやすいというような述べ方は納得できない。彼の宗教というものは弱い人間のする救いの手のようなものというところがここでの段落で説得力を書いている原因だとおもう。

   この点で、現代の私たちの生活の中で、特に日本は宗教に対して諸外国に比べて認識が薄く、批判的な部分が大きいと思う。ウェーバーの言葉を借りれば、直観(あるいは直感でもよいのかもしれない)に捉えずさめた態度をとろう、といいたくなる。宗教=弱い人間のするもの、陰気くさいといった偏見を持っているというのはどうしてなのだろうかと思う。

   少々飛躍してしまっているかもしれないが,日本では宗教という分野について少々タブーといった雰囲気があるように思う。オウム真理教のような宗教(宗教とはとてもいえないが)がでたせいもあるのだろうか。宗教という部分ひとつとってみても,日本が精神貧国と非難される間接的要因なのではないだろうか。

 

   早川ゼミ 3年 081032 木村俊子

  

  ウェーバーの”;カリスマ的支配”;について私が感じたのは,今まで私の抱いてきた(カリスマ)というイメージとは少し違うということだ。「カリスマ」にも,普遍的(一般概念)としての(カリスマ)と,ウェーバーにとっての「カリスマ」という二通りの意味があったということである。普遍概念(私が抱いていた)「カリスマ」は古代の勇猛戦士からヒトラーにいたるまで、また原始社会において新たなる法創造の革命力として働く「カリスマ」から中国の天子カリスマ等をも含めて価値判断に関係ないものだと認識していた。特に,「カリスマ」とはナチ体制の原型,ヒトラーの先駆的存在というイメージと,最近ではオウム真理教のような非現実的で超越的な私には受け入れがたいとするものであった。しかし、ウェーバーにとっての「カリスマ」はこのような普遍概念ではなく、政治的支配を指向して組み立てられたものだった。規律的合理性たる官僚制、個人の行為の意義を後退させてゆく力として「カリスマ」の意味と働きがある。特定の歴史の運動理論を捜し求めれば、先に述べたヒトラーや、革命家であったクロムウェルのような人物が、数多く存在していたことは確かである。もちろん、革命がすべてであるというわけでもない。にもかかわらず、歴史を振り返ればこのような性格をもっていたということも事実である。政治的な意味における人格崇拝はカリスマ的現象の部類に入るということである。

   カリスマ的支配は伝統的・合法的支配の排除手段であり、個人的要素を重視するということであったが、カリスマ的支配に存在価値を与える変換への要因は政治的または経済的な外的事情で決定されることもあるし、宗教または知的領域での精神の転換で決定されることもあるだろう。このようにして、伝統的支配から合法的支配へ移行するとき、理性がカリスマ的支配を生んだ革命的力であった。しかしながら、カリスマは時によっては例外的な状況を作り出すから、一時的な暴動以上のものとなったり、カリスマの支配原理そのものが困難の原因となる。実際に,ひとたびカリスマ的主張が消滅してしまったならば,カリスマ的権威は存続できなくなる。このような相続問題が問題である。伝統的支配や合法的支配に回復してしまう場合も考えられるだろう。この相続方法が体系化され、大統領制を見出すことのできるように民衆から人民投票として選出されることによってある要素を満たす人物を崇拝するような形式が確立されるならば、カリスマ的支配は正当性を持つようになる。

  また、大統領制に限らず日本における官僚制の中においてさえも,正当が選挙と観測の利害のみに引かれる有力者グループを除いてその内部構造において同一方向を取りつつある点や、現代社会においてますます増大する人民投票というもの一種のカリスマ的支配が存在するのではないかと思われた。

 

   柴田ゼミ 3年 082041 佐藤美穂

  

  Q1.冒頭「商品」の性格、「富」でないのはなぜか?

   資本論が「商品」から始まっているのは、資本主義経済が貨幣から成り立っているからである。富の資産は貨幣の媒介によって商品として生産され供給される。それも、ただ商品生産ではなく、商品による商品生産である。資本が商品を生産する際には、まず原料や機械を商品として購入しなければならない。さらには、労働者の労働力をも、賃金を払うという形で、商品化し、購入する。そのようにして生産されたものやサービスは、商品として売られ、それを消費者が貨幣で買わなければならない。また、消費者は購入した商品を生活の糧とし、労働力を商品として売るのである。このように、貨幣によって媒介された商品生産が資本主義経済を支配しているため、まず商品の性格を明らかにしようとしているのではないだろうか。

  Q2.捨象によって、なぜ「効用」が残らないのか?

  効用とは、ある物を持つことによって得られる満足の度合いを指す。このとき、その物には使用価値がある。ところがマルクスの説明によると、資本主義経済では使用価値は交換関係において捨象される。効用、使用価値というのは、各人によって千差万別であるが、商品と商品との等価関係を築くためには、同質性が必要とされるからである。こうして交換価値のみが残り、使用価値は交換価値の担い手でしかなくなる。その典型が貨幣である。貨幣は社会的に認められた価値尺度であるため、どんな物に対しても交換価値を持つ。しかし、使用価値はティッシュ代わりにするくらいしかない。したがって、使用価値の捨象によって、効用はほとんどなくなるといってよいだろう。

  Q3.社会主義では「価値」はなくなるのはなぜか?

   ここでいう「価値」とは商品の交換価値を指しているとすると、物の流通が自由交換関係ではなく、平等な分配によってなされる社会主義体制では理論上、「価値」は存在しない。しかし、利潤追求企業と利己的な消費者がいる限り、交換関係は成り立つのであって、両者が全く存在しない社会は想像できない。

 

   柴田ゼミ 3年 082041 佐藤美穂

  

   私は、自分自身、周りに流されやすいほうだと思う。中学時代、嫌な担任の先生の授業中に、周りの友達15人くらいでいっせいに、かんぺんを落としたことがある。そのときはさすがにひどく怒られ、後で後悔した。今思えば、あれはただ仲間からはずされるのが不安だっただけで、我ながら主体性がなかったと思う。

   今日の講義を聞いてそのことを思い出したので書いておいた。

   本題に移ろうと思う。近代主体=自立した個人の概念は、過去の戦争の惨禍に鑑見ても共同意識の強い日本人にとって今日でも重要な意義を持つことは確かである。共同体の構成員としての視点からのみ社会を捉えるのではなく、外的な視点を持ちつづけることは、社会を有機的に発展される上で必要なことだろう。

   しかし、折原浩のいう「近代主体論」には問題点がある。まず、「真理」の捕らえ方である。自分にとっての真実を追究するという姿勢は結構なことだと思う。問題なのはその後である。学問的・客観的心理と自分にとっての真理が呼応してはじめて本当の心理となる、と述べられているがそれは本当に真理と呼べるのだろうか。例えば、処罰が正しいか誤りか、というのは真実以上のものにはならない。また、「真理」であるならば、普遍的でなければならないはずだ。万有引力の法則や、ピタゴラスの定理など数的・物理的心理は別として、特に社会科学分野で「真理」を見出した、との確信は思いこみに過ぎないかもしれない。それなのに、ある特定の価値ばかりを追い求め、他人の意見に耳を貸さないとは、単なる頑固者である。社会は常に変化して行くものなので、社会科学の理論は否定の余地を残していなければならないと思う。

 

   小山ゼミ 3年 081054 菅原貴洋

  

  a経済について知って何になるのか

   この質問について、このことは経済についてのみならず学問全体について投げかけられる質問である。このことは受験期に顕著に表される。つまり受験のためにいろいろなことを覚え、それを応用して行くと、時々自分のやっていることについての疑問としてふと頭をよぎるものなのである。そしてそのことの答えとしては「何にもならない」というのが大多数人の答えであり、世間一般の答えとしてもそうなのである。現実としても、それは事実であり、真実なのである。今現在我々が学んでいるものは社会で役立ちそして必要なものは他人から学ばなくとも自然に身につくものであり、それが進化と言うものだからである。よってこう考えたならばどうであろう。人類の歴史という長い期間を一つのものとして考えたときはるか昔から人類は進化してきた。それは一足歩行であったり、火であったり、言葉であったりと様々であるが、現在からすれば、当然のことだがその当時はかなりの進化であったのだろう。同様に今日の我々も少しずつ進化しており、それは学問についてなのである。よって、我々の今受けている教育もしくはおかれている教育制度によって、未来へと進化するべき人類を自然淘汰しているのである。ゆえに、経済について知って何になるのかなどと、一時的な問題について考えるべきではなく知ることによって何にもすることのできない人類を排除していき、そして学問全般においてそのことがいえることによって後世へのこすべき現在の学問が過去の学問として進化したという証明なのである。

  b経済について理論的に知る限界

   経済というものの定義として「人間の行なう取引すべて」というものを考えるとする。そうなると、経済とは人間が必要不可欠なものである。そのとき人間というものを理論的に分析できるかというの答えはNOである。人間というものは、まずはじめに数が多い。そしてすべてばらばらである。よってそれらをすべてカバーするような理論など在るはずがない。よって経済では、経済的合理人というものによって分析したりするが、人間がすべて合理的行動を取るなどまずありえない。つまり、次に人間はすべて合理的行動を取ることなどまずありえない。つまり、次に人間には感情、あるいは真理というものが存在し、それは物質化できないという点が上げられる。ゆえに、この二つの点から人間の理論的分析の限界の存在、ひいては経済の理論的分析の限界があると考えられる。また、人間を経済的合理人に置き換えたとしてそれらを取り巻く環境、社会の要素も無数に考えることができる。はっきりと人間を切り離せる社会状況など存在しない。よって今度はそこにおいて理論的限界が生じる。そして最後に未来については現在と同じ社会人類が存在しているわけではないので、絶対に未来予測はできるはずがない。よって過去における経済についてのみ理論的に経済を知ることしか可能ではない。

 

   小山ゼミ 3年 081054 菅原貴洋

  

   可謬主義について

   「私が間違っているかもしれない。あなたが正しいのかもしれない。そして努力すれば、より真理に近づけるかもしれない。」

  という言葉は、どうもはっきりしない点がある。それはなんとなく正しいことを行っているような気がするのだが、はっきりと正しいとは思えないということである。仮定として、二人の人間がいて、物事について議論していたとする。片方が真理を知っている、もしくはともに真理を知らない場合、双方とも己の意思を真理と思いこみ、一歩も引かずに主張しあったならば、その議論は永遠に続くこととなり、真理はおろか己の間違いにすら気づかずに終わってしまう(議論が永遠に続くならば終わらないのだが…)そうなってしまう可能性を含んだ議論は生産性がないので無駄である。その点、上の言葉どおり実践できたならば、その言葉どおり真理への接近も可能であるだろう。しかし、ともに真理を知っている場合や、片方のみが可謬主義を進行している場合はどうだろうか。まずともに真理を知っている場合は、真理そのものを知っているのだが、部分的に食い違っているため結局二人の議論は進展することはなく、また真理に気づくということはないのではあろうか。例えるならば、席がひとつ空いているのに、その前に立っている二人の人間は互いに譲り合って結局二人とも座れずに終わるのではないかということをイメージしているのである。このため、可謬主義がはっきりとしたものとして捉えることができないのである。また、片方がその精神を扱っているときは、その持ち主が一歩引いて議論するため、そうでないほうが自分の意見を押し通す結果、偽であっても真理として受け入れられてしまう可能性があるのではなかろうか。このことは二人の間での議論において偽を真理として捕らえるということでまとまり真理に近づくどころか近づこうとすることなくその議論は幕を下ろすのである。つまり、己の誤りを認めることは大事であり、そこから真理の追究が始まるという点は理解することができるが誤りははじめから自己認識すべきではないのではなかろうか。はじめは自分の知識がすべてであり、すべては真であるという自負をもって議論に望み、そこで議論のあと誤りに気づいたならば認め、より真理へ近づければいいというのが自分の考えである。はじめから私は間違っているかもしれないなどというのは真剣に真理を追求する態度には思えない。

 

   小山ゼミ 3年 081054 菅原貴洋

  

   社会論と全体論について

  社会主義的個人主義と総体主義の対比について、講義では森と木の関係を例にとり説明を受けました。それは社会論では木の集団が森となるという考えで森よりも木のほうを重視し、存在するのは木であるというものである。全体論では、逆に森を存在するもととして捉え、森あってこその木であるというものである。そしてこの関係を社会と個人と置換え、それぞれの説明を正当化したものである.そこで疑問に思ったことは2つある。まず一つ目は、それぞれいっていることは正しく事実であるように感じる。なのに二つの理論は相反するもののように感じるということは、二つの理論をともに支持するものは存在としてはならないのだろうか。ならば、己のとった理論を対立するもう一方の理論を崩すには、どういうふうに論理立てていくのだろうか。ということである。木の存在を前提とした場合、木が集まったものは森以外の何物でもない。また森の存在を前提とした場合、草・花の集団を指すわけがないし、まして人の集団を指す言葉でもない。まぎれもなく木の集団を指すことは明確な事実である。よっていずれか一方を否定する場合、困難極まりない。そこをあえて否定するならば、木、森の存在の前提、それ自体を否定しなくては行けないのだろうか。そこで第二の疑問が浮上してくる。それは木と森の関係うんぬんの言うよりも、重要なのは木と森どちらが先に登場したのかというところまで話が及んだ場合、森と木の関係で人間と社会の関係を説明するときに、限界が生じるのではないかということである。木と森どちらが先かという問は、鳥と卵、どちらが先かよりは難しくないが、人間と社会の場合、人間が大量発生したときは考えにくく、突発的に社会が生まれたとは考えにくい。よって、人間が何人集まったら社会かという単純な疑問を無視した場合、社会よりも人間のほうが先に存在していたと考えるのは自然である。それに対し、木と森については、人間が存在する以前に存在していたために、人間が認識する際、木も森もすでに存在していたのである。このようなこと2つが疑問として心に残ったことです。この二つの疑問を踏まえた上で自分の見解を述べるならば、社会論的個人主義の立場をとりたいと思う。社会あっての個人というのも納得できるが、やはり集団を一つの固体として捕らえることは戦時中の日本と結びつき、まるで日本国のために死ぬという特攻精神を思い浮かべさせる。そうなると自分自身は個人であるため、個人を基礎とした考えのほうが理解しやすく、また己は集団である場合、つまり集団の象徴である場合は総体主義をベターであると思う可能性もあるということを付け加えておきたい。

 

   小山ゼミ 3年 081054 菅原貴洋

  

   経済人について

   自己の利益を追求しうるという利己的な合理的行動を行なうのが経済人ということだが、果たしてそれですべてが説明できるのだろうか。このような疑問がもちあがり、経営の分野では、管理人、社会人などを考えるようになり、それによってより現実の状態つまり現実に近いものを説明できるようになったのである。経済について考えてみた場合、単に金銭の流通のみが経済なのではなく、その流通に関わる人も経済の一部であり、また国も一部なのである。そうなると、人の決定には真理が経済に影響を与え、国の決定にはその国の政治が影響を与える。そして人が集まり集団の決定には社会、環境が影響を与えるのである。よって経済学を勉強する場合、ある程度の仮定が必要となるのである。つまりその仮定が多くなった結果、経済人をモデルとした経済の説明であり、仮定を減らせば減らすほど現実に近くなるので、経済人では説明できなくなってしまう。そこで社会人管理人をモデルとして説明するのである。仮定の全くない現実の経済を説明できるモデルはなく説明は困難である。しかしこれは経営においてすでに過去の実例を説明するときに必要のない仮定をはずすことでその例を説明するという有効さの手段で、それによって新たなモデルができるのである。つまり、このことは経営の過去の出来事を説明するのに有効であり、将来においてそのモデルが適用できるとは限らない。モデルは一般的に適用できるかのよな名称がついているが、あくまで過去の事例の説明のための一時的なものに過ぎないと考えます。

   よって、抽象的な経済を考えるとき、基本になるのは経済人であり、人間はすべて合理的行動を取ると考えます。状況環境によって人間は気持ちが変わり、選択も合理的に行われない可能性もなくはないが、それはごく一部であって、大半は合理的行動をしているのではないだろか。つまり、過去・現在について人の行動を見た場合、すべてが合理的行動しているなどということはなく、己が果たして合理的行動を取るのか、そしてとっているのかなどわかるはずない。しかし経済というものを分析する場合、やはり一番いいのは経済人をつかったものではないだろうかと思います。確かに現実に近ければ近いほど、役に立つとは思いますが、経済人を使った分析はひとつのりそう型であり、それが人にとっていいのかどうかという点では疑問は残りますが、経済のみを考えるときはそれがベストであると考えられるからであります。

 

   金井ゼミ 3年 082096 山口しおり

  

   ウェーバーのいう大統領民主制を日本の政治と比較してみても善し悪しはよくわからない。しかし大統領を持つ国家の有するパワーは見とめざるを得ないだろう。アメリカを見ると、日本はかてないような独特のパワーがみなぎっており正直言って驚く。大統領はカリスマであって、クリントンというただのアメリカ人が大統領としてマイクを振ると大勢の人々が熱狂する構図など日本に当てはまるわけがない。橋本首相がマイクをもって何かを言ったところで皆は素通りしていくだけであろう。

   カリスマというとそれこそキリストや仏陀のように宗教者のイメージがあるが、怒涛の勢いで人々をひきつけて離さない魅力がある存在なのだ。日本にはそのような存在が現れないが(一部の信仰宗教の指導者を除いては)やはり大統領制をとる国はカリスマが出現しやすい。社会主義国家は完全にカリスマ性といった感じがするが、例えば金日成亡き後の北朝鮮のようにやはりカリスマ後の支配は困難が伴うようである。

   アルゼンチン大統領であった故ホアン・ペロンはその妻エバのカリスマ性によって支えられていた.。しかし彼女の突然の病死が彼の失脚にも少なからず影響していたといえる。とにかく人々は何時でも何らかのカリスマを求めているように私は思う。

   芸能人だったりもすればスポーツ選手でもある。しかしいずれにしてのカリスマ的人物は(今で言うならば安室奈美恵に群がるアムラー少女のように)多くの人々をひきつけ魅了し、コントロールすることが可能なのだ。それこそ一人間性を示す人物として。

   官僚制という鉄のオリのなかにいる人々は今の日本の政治家で確かに個人として軟弱な精神をもっているようだ。一時期元厚相の菅原直人氏を首相にという話があったが、これも薬害エイズ等で人々をひきつけてしまった管氏をカリスマとして、シンボリックな存在に祭り上げようとしたのだろう。よって、人々は政治においてどこかでウェーバーの大統領民主性タイプのものを求めているように思われる。トップに人々を魅了するカリスマ的人物をおく。だが、それは指導者というよりは、支配のために必要とされる「人形」でもかまわないような気がするのだが。

   よって、合法的支配における大統領といった指導者は、別に指導者としての強い能力がなくても、なぜか人を惹きつけるパワーのある人物ならば、カリスマならば指導能力はあまりとわないのでは、というような感もある。一番上に魅力的な人を置くことで官僚の合法的支配がうまく行くのだから、このウェーバーの考えは傀儡政権を招きそうだ。

 

   佐々木ゼミ 3年 17082003 荒川由佳

  

  政治的倫理に置換えることはできない…政治的教育について

   「倫理的」理想を求めると、ウェーバーは気質の柔軟化という表現で表していますが、人はいわゆる「いい人」になろうと努めます。この「いい人」というのは、他人との争いを好まず、欲望を剥き出しにすることもなく、常に心の平穏を保つ、一言で言えば倫理的人格というような人のことです。確かに人間足るもの、このような心を全く持っていなかったら人間足り得ないでしょう。しかし、これをウェーバーいはく政治的教育と比べてみると対極とまで行かなくてもやはり違う向きのベクトルを持ったものであると思います。国民的な歴史に残るような高貴の人間を育成するのが政治的教育ならば、これは一種の野心が根底にあるものということになるのではないか、と思うのです。ウェーバーの「職業としての政治」に記されている心情倫理と責任倫理に対応するもの(いい人=心情倫理、政治的倫理=責任倫理)でもあるのではないでしょうか。倫理的にいい人になってしまうと、人間はある統一的な型にはめられたのと同じくなり、没個性化してしまいます。これでは世間一般の人であり、歴史に残るような高貴な人間では在りません。「高貴な人間」になるための政治的教育なら、これは独自の個性を行き出すような常に世の中の流れをつかんで先見の明をもてるような教育、自分が社会でリーダーシップをとるのだというチャレンジ精神的な気持ちを引き出すような教育、人を動かす能力(今で言う経営管理のような)を見につける教育等、倫理的側面から見ると否定するような権力を身につけるための教育をいえるのではないのでしょうか。こうかんがえてみてげんざいをこうさつしてみると、倫理的にいい人、つまり心情真理について関連しているものを学ぶのが文学部、教育学部で、政治的教育、つまり責任倫理について関連しているものを学ぶのが法学部、経済学部となるのではないでしょうか。

   今回の「国民国家と経済政策」の講義を聞いていて「政治と倫理に置換えることはできない」と「国民国家の反映のためには若さと本能が必要である」のところは共通のマトリックスがあるのかなと思いました。これはあくまでも私が勝手に思ったことなのであえて上記の本論には書きませんでしたが・・・。「国民国家の――」のところで先生の解説で、左の図を見たときに、ウェーバーがよいとした(目標とすべき)aのところに「政治を倫理に―」のところで提示された政治的教育が、そして保守主義の位置とされるbのところに倫理的にいい人が入るのかなと思いました。だからといって、倫理的にいい人が保守主義というのではなく、あくまでも政治的教育にスポットを当てるとこれは理想、情熱を持っていてこの先の未来が広く広がっていて、これに対しての倫理的にいい人は更なる発展を望むというよりは今の平穏な状態をキープしようとするのではという意味で老い―成熟のところに入るので、と思ったのですが…これは全く見当違いなのでしょうか。

 

   佐々木ゼミ 3年 17082003 荒川由佳

  

  「『良い』目的を達成するためには、道徳的にいかがわしい手段を用いなければならず、悪い副作用の可能性や蓋然性にまで覚悟してかからなければならないという事実、を回避するわけには行かない」について思うこと。

  @道徳的にいかがわしい手段を用いなければならず、について

   この言葉を聞いた瞬間、痛いところを疲れたと思ったのが正直なところです。今の日本の政治を見てみると、これも真かなあと思いました。でもこれが良い目的を達成するために用いられるのであるというならば、やはり偽であると思います。そもそも根本的見地に立ってみると道徳的にいかがわしい手段を用いなければ達成できないものが『良い』目的のために人名を脅かすという危険生後ある血液製造と供給しつづけたということもこれに当てはまると思います。いっき、世の中に充蜜している『きれーごと』を論破するような言葉であるけれど、これが真実であってはならず、道徳的な行為ゆえの目的達成であるべきだと思いました。

  A悪い副作用の可能性や蔓然性にまで覚悟してかからなければならないという事実について

   これに関しては最もだと思います。ただし『良い』目的のためかつその達成が悪い副作用よりもかくりつん高いときにのみ、目的達成の行動をするという前提があっての上です。ある目的を達成する仮定には必ずリスクはつきものです。リスクのまったくないものなら達成の仮定というものはほとんどなく、即実現というようになるでしょう。ほとんどの事柄はまず机上計画から始まります。この段階で、全く悪い副作用の可能性が生じたとき、なすすべもなく、毒がまわるのをただ見るか、それを消すためにすべてを白紙に戻すしかないということになってしまいます。はじめからある程度の悪い副作用の可能性や蔓然性を覚悟して、その対応策を講じておくことが『善い』目的の達成に近づけるものだと思います。

   10月20日に衆議院総選挙があり、私は3月に20歳になったのではじめて有権者として投票します。選挙権というのは国政に参加できる数少ない権利の内のひとつであり、かつ自分の意思を表示するためにも大切なものであると思うのです。自分の意思にあった政党を選ぶのはもちろんのことですが、たとえ政治不信に陥っていたとしても、何らかの形で選挙を通して自分の意思を示すべきだと思います。しかし友人の一人は今の政治を批判するため、わざと投票しないといいます。友人の言い分もわからないことはないのですが、選挙権の放棄は批判ではなく無関心ととられてしまうのではないでしょうか。同じ批判でも選挙を通しての批判はポジティブ批判で選挙権の放棄はネガティブ批判ではないかと私は思うのですが、選挙権放棄について先生はどのようにお考えですか。